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2015.08.19

花と食で彩る日本の暦〜「立秋」、「処暑」

咲いている芙蓉の花

暦の上では立秋をすぎましたが、カレンダーの8月は酷暑のさなか。それでも日差し越しの花や虫、行事や味覚を眺めると、日本の暮らしと共にある暦が見えてきます。ガーデンプランナーの塚田有一さんが教えてくれる暦のお話、今月は「立秋」から「処暑」です。

蝉の声 聞けばかなしな 夏衣 (古今和歌集)

上下四方からの照り返しで、チリチリと肌が焼けそうな炎暑。都市の出す熱気が上昇気流となって、外からの風が阻まれているのでしょうか。「なつ」の語源は「ねつ(熱)」ではないかとも言われています。「夏(か)」は「火(か)」にも通じます。

真夏の昼下がり、揺らぐ風景に目を凝らすと、石垣に生える羊歯(しだ)の仲間や、道ばたの植物たちは葉を焼かれながらもたくましく、欅や楠の葉も燃えあがります。一日花の木槿(むくげ)や芙蓉(ふよう)の花は小さな花火のように日盛りに咲いて、夕方には萎んでしまいます。夾竹桃(きょうちくとう)やランタナ、ノボタン、ポーチュラカなど、熱帯からやってきた植物の花は夏の強光に似合いますね。

都会の真ん中でも、いたるところ意外なところで蝉の抜け殻が見つかります。羽化した彼らは、鳥と同じ夜明けと共に鳴きはじめたかと思ったら、夜中でも鳴くことがあり、じりじりと熱帯夜には堪えます。でも、植物や昆虫たちの逞しさ、さんざめき、かまびすしさは、なにかを急いでいるようにも思えます。

8月の二十四節気は「立秋」と「処暑」ですから、実はすでに夏の盛りはあとわずか。彼らには急がなければならない理由があるのでしょう。

まさにいま羽化しようとしている蝉

風死す真夏の昼下がりは特に、緑蔭や緑の中を渡ってくる風がとても恋しくなります。緑のこんもりした社叢(しゃそう)を見つけるとほっとします。僕の仕事は庭をデザインして造ったり、花を活けることですが、もともと緑のある場所(廃校や団地など)を学びの場や交流の場として活性することや、緑がないなら新たに庭を造り、どう活かして行くかと言うことも仕事になります。

人と自然の紐帯を結び直すために、庭や活け花という仮の場所が必要なのでしょう。庭や活け花も見たり感じたりする方法があります。世田谷では8年以上、休校している中学校の庭の植物を手入れしながらワークショップなどを続けています。近くの神社では4年目、これから新しい展開を考えています。

そしていずれの場所でも畑では「藍」を育ててきました。真夏といえば、数年来ずっと藍の青とセットなのです。

神社の杜(もり)はそもそも誰のものでもなく、強いて言えばそこに生きる生き物たちのものでした。ですから最小限に人の手を入れます。杜や森の「も り」はアイヌ語では「静かな 高いところ」。里の杜は「山」のかわりをしました。山(やま)は祖霊の魂が眠る所と考えられていました。その意味では「黄泉(よみ)」であり、神社でもお墓でも、お参りをするということは、祖霊の場所にひたり、音信に耳を澄ませ、生命を更新することでもあります。聖域とされた場に屋根がかかり、屋代(社)となり、神社のかたちが整って行きます。鳥居はその領域への門であり、参道は産道だったのです。母なる場所としての「山」は、神社もしくはお寺(「◯◯山」などと扁額がかかげられていますね)などの元型なのでしょう。

夏を染めるあわいの色、藍の緑より生まれる青

咲いている花

「藍染め」といっても「生葉染め」という方法で行いますので、庭師や大工が身に纏うような濃紺には染まりません。生葉染めですと絹か麻によく染まり、綿や化学繊維には色がほとんどつきません。有名な徳島の藍と同じように、ここでは「蓼藍」を育てています。

「藍」という漢字は草冠をとると「監」で、カネヘンがつくと「鑑みる」。「監」は『字統』によると「水盤に臨んでその姿を映す意」だそうです。鏡のない時代は水鏡でしたから「藍」は淡い「水」の色だったのかもしれません。

生葉染めでは、まさにそんな淡い、空のように澄んだ色が出るのです。真夏に葉を茂らせた藍の葉を摘んで、ジュースにして漉した染液に絹や麻を浸けて引き上げると、薄い緑色に見えます。それを空気にぱたぱたと晒すと、蒼みがさっと強くなり、しばらくしてきれいな水につけて洗うと葉緑素の緑が流れ落ち、鮮やかな水色が姿を現します。一瞬ですが、その色のグラデーションは、パレットの絵の具の色にない色彩の奥行きと幅を見せてくれます。乾くとまた色が変わるのですが、水の滴る瑞々しいその色はまさに「旬」の色。この時期にしか採れない、実は一番贅沢な色なのです。

「あお」は旧仮名では「あを」なのですが、これは水の「沫(あわ)」「泡」、「あわい」とか「あわれ」などとも同根です。曖昧の「曖」とか、愛情の「愛」もそうでしょう。はっきりしない靄の中のような、漠然としたとか幽冥ともつながります。英語のblueもbluesと同根でしょう。ブルースは、アメリカに移住させられた黒人霊歌がもとだとも言われています。憂鬱とか悲哀も意味します。日本の地名に「青」がつくところは多くが墓地だったりします。ですから、もっと行くと怖い世界の話(怪談など)にもなりますね。熱暑には涼しげな青は欠かせません。

精霊蜻蛉、盆トンボ。夏の光と影を渡る儚さ

茎にとまっているトンボ

6月の沖縄での「慰霊の日」に続き、8月は「原爆忌」そして「終戦記念日」と続きます。地方では月遅れのお盆のタイミングでもあります。重い意味を担わされていると思わずにいられません。

8月は生命を謳歌する昆虫たちの季節でもありますが、蝉の声はいつもその短い命とともにあり、「空蝉」は「現し身」で、蝉は再生の象徴でありながら、生の儚さを現してもいました。蜻蛉は祖霊の訪れでしたし、季節ごとに咲く花も地下と地上を結び、やってきては去って行く季節の印としてきました。「はかばかしさ」と「はかなさ」はいつでも背中合わせなのでしょう。

それは水蜜桃を頬張るとき、かき氷の涼味に頭がキーンとする懐かしい時間にもひそんでいて、幼い記憶の中で輝きを放っているでしょう。

山盛りに盛られたかき氷

季節ごとの祝い(お節供や行事)、年に1度のお祭り、神社などの聖域を設けてきたこと、それらはこの世界が人間だけの世界ではないと、また世界は影があって光があるということを伝え続けて行くための知恵だと思います。輝きは光と影が交錯することで生まれます。過ぎ去る者があり、やってくる者があります。

夏と秋の混じり合うとき、高速で動く生と死のあわいを私達はまざまざと実感していけるのではないでしょうか。

花と食で彩る日本の暦〜二十四節気『清明』_4塚田有一(つかだ ゆういち)

ガーデンプランナー/フラワーアーティスト/グリーンディレクター。 1991年立教大学経営学部卒業後、草月流家元アトリエ/株式会社イデーFLOWERS@IDEEを経て独立。作庭から花活け、オフィスのgreeningなど空間編集を手がける。 旧暦や風土に根ざした植物と人の紐帯をたぐるワークショップなどを展開。 「学校園」「緑蔭幻想詩華集」や「めぐり花」など様々なワークショップを開催している。

文: 塚田有一

写真:みやはらたかお

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