Foodie(フーディー)は、三越伊勢丹グループが運営する食のメディアです。

2015.05.26

マルチアーティスト・北大路魯山人を開眼させた、北陸の食文化とは?

2015年3月の北陸新幹線の金沢開業で盛り上がりを見せている石川県。金沢21世紀美術館、兼六園などの観光名所とともに、ぜひ注目したいのが北陸の食文化です。 明治から昭和にかけ、美食家、篆刻(てんこく)家、書家、陶芸家としてマルチな活躍を見せた北大路魯山人も北陸と縁が深く、彼の名を世に残すきっかけとなった赤坂の料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」は、その北陸滞在時代に培った美意識を色濃く反映していたそう。 辛辣な批評で知られる魯山人を魅了した食文化とは一体どのようなものなのか、彼の足跡を辿り迫ってみましょう。

豊かな食材と伝統工芸との融合で生まれた、北陸の食文化

14_rosanjin_02

提供:北国新聞社

古くから中国、朝鮮半島との貿易の玄関口であった石川県。江戸時代の加賀百万石は物流拠点としても栄え、日本海の海産物、加賀平野や山々の野の幸、白山連峰のきれいな水など、食を極めるに理想的な環境がありました。また、茶の湯が発達した当時は城下に京文化が入り込み、一方で加賀藩前田家が徳川家と婚姻関係を結んだことにより江戸文化も浸透。このふたつが融合した料理が生まれます。

さらにはこの頃、優美な蒔絵(まきえ)を施した輪島塗や、色鮮やかで華麗な九谷焼といった伝統工芸が急激に発展。料理と器が互いを高め合うような絶妙なマッチングを特長とした、独自の食文化が確立され、これがのちに加賀料理と名付けられます。その華やかな文化を求めて粋人が集まったのが加賀の山代温泉で、ここは金沢とともに、魯山人の人生に大きな影響を与える地となります。

写真の加賀料理の代表格「鯛の唐蒸し」は、2匹の鯛の腹に卯の花をつめたもので、あでやかななかにも鯛が切腹を連想させる腹開きではなく背開きになっているのは、武家の文化を反映しているからだとか。

恵まれた環境のもと、食への興味を深める魯山人

14_rosanjin_03

大正4年、近江長浜の文房具商・河路豊吉の紹介状を手に、福井県鯖江で美術周旋業を営む窪田卜了軒(ぼくりょうけん)を訪ねた魯山人は、金沢の実業家で漢学者、茶人としても知られた細野燕台(えんたい)に出会います。燕台はしばしば山代温泉に魯山人を同伴し、粋人と引き合わせましたが、なかでも懐石料亭「山の尾」の料理長兼主人・太田太吉、山代温泉の旅館「吉野屋」の主人・吉野治郎、九谷焼職人・須田菁華らとの出会いは、彼の人生に大きな影響を与えました。太田太吉のもとに毎日のように通い加賀料理を教わって食への興味を深める一方、吉野治郎が提供した別邸を拠点に篆刻や書の制作に励むようになるのです。

魯山人のお気に入りは「くちこ」と「たくあん」

14_rosanjin_04

数ある北陸の美食のなかでも、魯山人が特に感動し、東京に戻ってからも取り寄せて食べていたのが「くちこ」と「たくあん」。くちこはナマコの卵巣で、乾燥したものと生のものとがありますが、魯山人が好んだのは生食で、そのおいしさを「生の香りは、妙にフランスの美人を連想するような、一種肉感的なところがあって……」と表現しています(出典:『魯山人味道』中央公論社)。 また、「自身の知っている限りでは、一等よいものだと思う」と言っていたのが、山代温泉産のたくあん。伊勢のたくあんも好んで食べていましたが、「山代産の方にはウブなうまさがある」と特別評価していました。(出典:『魯山人の美食王国』文化出版局)

「器は料理の着物である」

これは魯山人の有名な言葉ですが、彼が陶芸に目覚めたのは石川滞在時代のこと。魯山人は、細野燕台が自作の食器で家族と食事を楽しんでいることに驚くと同時に羨ましく思い、それをきっかけに陶芸に興味を持つようになりました。 また、料理人の太田多吉が自ら九谷焼職人の須田菁華(せいか)のもとに出向き、彼の料亭「山の尾」で使用する食器を作る姿とこだわりを目の当たりにし、食と器の調和の大切さを知ったといいます。そして魯山人も器の絵付けに挑戦してみたところ、太吉も菁華も驚くほどの美しい仕上がりになり、このとき陶芸家・北大路魯山人が誕生したのです。その後も魯山人は菁華に手ほどきを受け、陶芸の技術や審美眼を磨いていきます。

晩年まで続いた魯山人と北陸との関係

東京に戻った魯山人は大正10年、のちに京都の美術印刷「便利堂」社長となる中村竹四郎とともに、京橋に会員制の割烹「美食倶楽部」を開設。これが評判を呼び、赤坂の会員制の高級料亭「星岡茶寮」にて北陸時代に磨いた才能を開花させます。魯山人は星岡茶寮の顧問兼料理長として腕をふるい、料理と器の調和にきめ細やかな配慮をみせ、盛り付けに使う器を石川の須田菁華窯に出向いて作ることもあったのだとか。そして彼と竹四郎の尽力により、星岡茶寮は「東京における最高の料亭」と呼ばれるまでに発展しました。魯山人は晩年まで、かつて暮らした石川の吉野別邸のことを気にかけていたそうです。充実した時間を過ごした思い出の場所はいつまでも色褪せず心に残っていたのでしょう。

現在でも魯山人の足跡が感じられる石川県

金沢には魯山人がかつて毎日通っていた近江町市場が今もあり、加賀野菜やノドグロなど北陸ならではの美味が集まっています。そして山代温泉の別邸跡につくられたのが「魯山人寓居跡 いろは草庵」。現在は史料館のような形になり、魯山人の仕事部屋、書斎、囲炉裏の間などが公開されています。 ほかにも、魯山人が陶芸の修行をした「九谷焼窯元 須田菁華」は、現在も美しい作品を多数生み出しています。明治の創業時と変わらない建物が、魯山人が制作した篆刻の看板を掲げて佇んでいます。そして魯山人が支払いに困ったとき、代わりに贈ったという器や書が残る宿、「山乃尾(旧山の尾)」「あらや滔々庵(とうとうあん)」「星野リゾート 界 加賀(旧白銀屋)」「たちばな四季亭(旧田中屋旅館)」などでは、その美しい器とともに、魯山人が愛した伝統的な料理を味わうことができます。

便利になった北陸新幹線で魯山人ゆかりの地をめぐり、石川の食文化の素晴らしさを一層深く体験してみたいですね。

文: 小林沙友里

写真/Getty Images/thinkstock、北国新聞社、いろは草庵
※本記事に掲載された情報は、掲載日時点のものです。商品の情報は予告なく改定、変更させていただく場合がございます。
※本記事内でご紹介しているアイテムは、三越伊勢丹でのお取扱いはございません。

※本記事に掲載された情報は、掲載日時点のものです。商品の情報は予告なく改定、変更させていただく場合がございます。

FOODIE 占い

人気のカテゴリー

閉じる