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2015.07.21

土用の丑の日にうなぎ(鰻)を食べる理由とは? ぶつ切りから蒲焼きへ進化したうなぎ論

ぶつ切りから、蒲焼きへ。「土用の丑の日」に知る、うなぎ進化論_1

蝉の声が日ごとに大きくなり、液体のような暑さが体にまとわりつく―いよいよ本格的な夏の到来です。この時期になると目にする「土用の丑の日」。この文字を見ると多くの日本人は「そろそろうなぎが食べたいなぁ」なんて自然と思うものです。

でも「なぜこの日の食べ物はうなぎなの?」と聞かれると、(何となくは知っているけれど)詳しくはわからないという方も少なくないはず。あらためて調べてみると、「土用と丑の日」の由来やうなぎの歴史には、ちょっと意外な事実が見つかりました。「土用の丑の日」の近づくこの時期、「うなぎ」にまつわる知識を掘り下げてみませんか?

「土用」と「丑」の意味って?

まずは「土用の丑の日」の由来について。「土」は、「五行説」からきた言葉。五行説は、宇宙のすべては『木』『火』『土』『金』『水』の5種類からできているとする、古代中国の自然哲学です。

この「五行」を四季に当てはめ、樹木が成長する春を「木」、灼熱の季節である夏を「火」、作物を収穫する秋を「金」、寒冷の季節である冬を「水」、そして余った「土」をそれぞれの季節の「変わり目」とし、暦としていたのです。

この「変わり目」の時期は、総じて土の気がもっとも旺(さか)んに働く(用事をする)ので、古くは「事(どおうようじ)」といわれていたものが「土用」となりました。「土用」=夏と思われがちですが、年に4回ある季節の変わり目のことだったんですね。

ぶつ切りから、蒲焼きへ。「土用の丑の日」に知る、うなぎ進化論_list

次に「丑の日」について。お察しの通り、「丑」は、子・丑・寅・卯……という干支を指すアレです。現在では「今年の干支」のように、「年」を表すものとして馴染みがありますが、かつては「月」や「日付」、「時間」を表す際にも用いられていました。

時間でいうと、午前2時〜2時半頃を指す「丑三つ時」などがよく知られるところ。日付の場合は、2015年6月22日が巳、23日が午、24日が羊というように、十二支を曜日のように日にちに対応させていくなかで、「丑」が当てはまる日のことを「丑の日」と呼んでいました。

つまり「土用の丑の日」とは、季節の変わり目である「土用」と、十二支の「丑」が重なる日のこと。「土用」の期間はおよそ18日なので、1度の土用に2回丑の日が来ることもあります。2015年の夏はそのタイミングに当たり、7月24日と8月5日の2日間が「土用の丑の日」になるのです。

起源は平賀源内よりもはるか昔、万葉集の歌に「うなぎ」の記載あり

暦上の「土用の丑の日」と、「うなぎ」が繋がったのは江戸時代のこと。その背景には蘭学者の平賀源内(1728〜1779)の戦略がありました。

夏にうなぎが売れず困っていた鰻屋の主人が、友人の平賀源内に相談。「丑の日に『う』のつく食べ物を食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得た源内は、「本日丑の日」と店先に張り紙を出すことをすすめたそうです。鰻屋が試してみると、大繁盛。その後、周囲の鰻屋も真似を始め、いつしか全国的な風習となっていったんだとか。※諸説あり

と、ここまではよく知られた話。しかしさらに調べてみると、どうやら源内の「オリジナル」というわけではなかったようです。というのも、「夏にうなぎを食べるとカラダにいい」と、もっと古くから知られていたことがうかがえる資料が……。

源内の時代から遡ること約1000年、奈良時代(710〜784年)には認識されていたようで、現存する最古の和歌集・万葉集で、大伴家持の詩歌に歌われています。

石麻呂に、我れ物申す、夏痩せによしといふものぞ、鰻捕り食せ

(石麻呂さんに申し上げます  夏痩せに良いそうですから鰻を捕って食べてください)

つまり、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣は、「夏にはうなぎがいい」という古くからの知識を平賀源内がうまくあおったことでできあがったもの。

「本来は冬が旬のうなぎを、うまく暦と結びつけ、(それほどおいしくない)夏に売りさばくことに成功した」と、ややマイナスに語られがちな平賀源内の戦略。しかし、体力が落ちる夏の栄養補給にうなぎが適しているのは、現在では栄養学的にも検証されていること。源内が広めた「土用の丑の日」の習慣は、実は理にかなった内容だったと言えそうです。

ぶつ切りを塩味で!? かつての驚きのうなぎの調理法

ぶつ切りから、蒲焼きへ。「土用の丑の日」に知る、うなぎ進化論_2

「江戸名所百人一首」/国立国会図書館ウェブサイトより

このように古来から食されていたうなぎ。今ではうなぎといえば「蒲焼き」が定番ですが、「ぶつぎり」にしたり、「丸ごと」串にさして焼いたりして、食べていたんだそう。しかも味付けは、塩や味噌、酢だったといいますから、ちょっと味の想像がつきませんね。

うなぎの調理方法が飛躍的に進化したのは、民衆の暮らしが安定し、さまざまな文化が華開く江戸時代中期。この頃になって初めてうなぎを「割いて焼く」調理法が誕生します。18世紀初頭に出版されたとされる「江戸名所百人一首」には、深川八幡社内の露店で、割いたうなぎを焼く人物が描かれています。

ただ、この調理法ができてからも塩や味噌、上方の淡い味付けで食べる時期が続きます。甘辛味が登場するのは、しばらく後の18世紀中頃。千葉県の銚子や野田で生まれた「濃い口醤油」の普及を期に、現在のタレの原型ができていったといわれています。

さらに現在と違う点は、当時はうなぎだけで食べるのが一般的で、ごはんとセットではなかったこと。宮川政運という人が書いた『俗事百工起源』によると、ごはんの上にうなぎをのせる食べ方を考案したのは大久保今助という人物。大のうなぎ好きだった今助が、うなぎが冷めないよう熱々のご飯の間に挟むよう鰻屋にお願いしたのがはじまりだそう。その後、今助の食べ方を真似る人が現れ、鰻屋が「うなぎ飯」として売り出したといわれています。※諸説あり

<うなぎ つきじ宮川本廛>がおすすめする、気軽なうなぎの楽しみ方ぶつ切りから、蒲焼きへ。「土用の丑の日」に知る、うなぎ進化論_3

進化を続けてきたうなぎの食べ方ですが、「割いて白焼きし、一度蒸してからタレを付けて焼く」、という現在の関東風の調理法が確立したのはいつ頃なのでしょうか? 明治26年の創業の老舗<うなぎ つきじ宮川本廛>の吉田吉完さんにお話を伺いました。

「現在の調理方法が完成したのは明治時代と言われています。当時は1杯6厘、現在でいうと120〜130円くらいだったそうです」。当時、小学校教員の初任給が8〜9円だったとされますから、そこから想像すると、結構庶民的な食べ物だったようです。

「現在でも当店では、当時と同じように、その日の朝仕入れた国産の活鰻(かつまん)を使い、注文を受けてから備長炭で焼き上げ、創業時から継ぎ足している秘伝のタレで仕上げています」

伝統ある製法で丁寧に焼き上げられた<つきじ宮川本廛>のうなぎは、旨味がギュッと凝縮され、ふっくらとして柔らか。さっぱり目の甘辛いタレと、適度にのった脂が絶妙なバランスです。なにより、明治の創業より守られてきた製法や、継ぎ足しのタレの歴史の重みに、味わいもひとしおです。

平賀源内が「土用」と「うなぎ」を結びつけてから200年以上。今でも1年のなかでうなぎが一番売れるのは「土用の丑の日」だといいますから、源内のパワーおそるべしです。しかし、土用のイベント食としてだけでなく、日常的にもっと気軽に楽しんでほしいと吉田さんは言います。

「うなぎに含まれる栄養素には、疲労回復や食欲増進が期待できるので、やはり夏に食べるのは、理にかなっているんです。ですから、特にこれからの時期は積極的に食べていただきたいですね。さらに、コラーゲンもたっぷりなので美容に関心のある方には、定期的に食べることをおすすめします。お店でかしこまって味わうだけでなく、ちょっと疲れたな〜くらいの時にもお気軽にテイクアウトして、お好きなときに召し上がっていただければと思います」

今の時期なら花火大会のお供に「櫃まぶし弁当」をテイクアウト。浴衣の手元には「うなぎ」なんて、江戸っ子っぽくてちょっと粋じゃありませんか? この夏はもっと自由にうなぎを楽みましょう!

文: 田山康一郎

写真:静岡県立中央図書館(1枚目)、国立国会図書館(2枚目)

バイヤー・スタイリスト / つきじ 宮川本廛 吉田 吉完
曽祖父はつきじ 宮川本廛の創始者。大学を卒業後、新聞記者10年を経て、家業を継ぎ11年。「120余年の伝統を守りつつ、伝統を進化させられれば」と8年前、伊勢丹新宿店で宮川初となる櫃まぶしをメニューに加え、マグロとうなぎとトロロが一つの丼で楽しめる宮川丼を考案。お客さまの立場に立ったメニュー、接客を目指し奮闘中の42歳。

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