2015.10.31
発祥の地は「神田明神」!? 七五三に欠かせない「千歳飴」の由来と意味
11月15日。この日が近づいてくると、街に晴れ着を着た子供たちの誇らしげな姿が見られ、思わず顔がほころんでしまいます。日本に古くから伝わる、子供の成長を祝う行事「七五三」。この七五三に欠かせないものといえば、長袋に入った紅白の細長い飴「千歳飴」です。
実は千歳飴は、東京・神田明神が発祥の地といわれています。1300年近い歴史を持ち、江戸総鎮守として東京を見守り続けてきた神田明神。神社と千歳飴はどのようにつながり、そこにどんな意味が込められていたのでしょう。神田明神さんに、お話をうかがいました。
江戸時代に遡る、千歳飴の歴史
「神社で七五三のお参りをした子供たちに千歳飴をあげるようになったのは、神田明神が初めてと言われています。口承で伝わっていて記録などは残っていないのですが、江戸時代には千歳飴とのつながりがあったようです。明治時代の写真には、境内で千歳飴を販売している様子が写っています」
もともと「七五三」という言葉は、明治以降に呼ばれるようになったもの。それまでは「祝児詣(いわいごもうで)」とも呼ばれ、3歳の男の子と女の子の「髪置(かみおき)」、5歳の男の子の「袴着(はかまぎ)」、7歳の女の子の「帯解(おびとき)」などの行事があり、行われる日も違っていました。それが江戸時代中期に徳川五代将軍綱吉の子、徳松の祝いを11月15日にしたことから、7歳、5歳、3歳が一緒にこの日にお参りするようになり、それを明治時代になってから「七五三詣」と呼ぶようになったそうです。
「実は千歳飴も、江戸時代にはお祝いのお返しとして親がご近所や親戚に配って歩くものでした。歌川広重の浮世絵にも、お参りに行く家族の後ろをついて歩く、千歳飴を持った丁稚の姿がたくさん描かれています。『千歳飴は紅白で縁起がよい』。それで神社でも、お参りにきた子供たちに縁起物としてあげるようになったようです」
七五三は、子供の「厄除け」でもあった
昔は子供の死亡率が高かったため、「七歳までは神の内」といい、7歳を過ぎてようやく社会人への第一歩を踏み出せると考えられてきました。そんな時代に七五三は「子供の厄除け」としての意味も持ち、「千歳」の言葉には「千年まで健康で長生きしますように」という想いも込められていたそうです。
神田明神では、今も昔と変わらず、七五三のお参りにきた子供たちに千歳飴が授与されています。飴の中でもっとも長い歴史をもつといわれる千歳飴。時代が目まぐるしく変化する中、昔のままの形で現代の子供たちが手にしていることは、小さな奇跡といえるかもしれません。それはまさに、時を越えて、子供の成長を願う親の思いが受け継がれているのです――。
神田明神(かんだみょうじん)
東京都千代田区外神田2-16-2
1300年近くの歴史があり、江戸時代には「江戸総鎮守」であった神田明神。神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内など、108の町々の総氏神様として今も多くの参拝客が訪れている。江戸の伝統や歴史を色濃く残しながらも、動画のインターネット配信などの新しい試みにも積極的に取り組んでいる。
商品の取扱いについて
2015年は11月15日までの期間、伊勢丹新宿店本館地下1階=甘の味/名匠銘菓にて、以下の千歳飴をお取扱いいたしております。
<榮太楼總本舗>3本セット 497円(税込)
<HIGASHIYA>5本セット 1,080円(税込)
※本記事に掲載された情報は、掲載日時点のものです。商品の情報は予告なく改定、変更させていただく場合がございます。
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